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2006年11月 7日 (火)

GO Fight!

勇気を与えるものってやっぱ歌だよな。

歌って平安時代からあったんだよ日本

1000年以上も時を越えて感動や勇気を与えるんだよ歌って

ほんとすげえよ歌

ん?俺?歌好きだよ

むしろ大好きに部類してもいい

歌の字も好きだ

可可欠

可能可能欠如

やっぱすげえや歌

だから俺は将来

大工になる

大工になってたくさんの家を作って

いろんな人に住んでもらう

もちろん欠陥住宅

なんでかって?

儲かるからに決まってるだろうが!

資本主義経済で儲けるために商売して何が悪い!

アホが!市ね!

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2006年11月 2日 (木)

モノポリー

今日はちびまるこちゃん占いをしましょう。ものすごく簡単なのでやってみて下さい。

まず、「ちびまるこちゃん」と聞いて誰を思い浮かべましたか?

ここで俺はスネ夫を思い浮かべた。

つまり、ちびまるこちゃんと言っているのに全然時間帯もチャンネルも違うドラえもんに登場する名脇役スネ夫が出てくる時点で俺は終わっているのだ。いやこの占いに対して、俺がこの占いを実行できる資格を失ったと言っても過言ではない。

物事はなんでも始めと終わりが重要。オナニーだってセックスだってまんこスリスリ運動だって始めと終わりがよければそれでよい。

だが、始めよければ全てよしなんていうけど、じゃあ終わりの役目ってなんだ?だいいち始めがなければ終わりもできないんだし、始めこそがもっとも重要じゃないのかって思うけど、そりゃ問屋が卸さない。

俺は、終わりというのは始めと終わりの中間の「間」を意識したものだと思う。日本語でも間もなくとか間に合う、あっという間など「間」を意識した言葉がありふれている。もしその間が不十分であれば、そこで終わりが補うではないだろうか。具体的に説明すると、たとえばまんこスリスリ運動をし始めて、そこへ親が勝手に部屋に入ってきて間が悪くなり、そこでまんこスリスリ運動をやめてしまうのかそれとも継続するのか。この選択が終わりへの分岐点になっている。親に見られたことによる罪悪感でやめてしまえばせっかく始めたまんこスリスリ運動を中断してしまうことになる一方、そんな糞みたいな感情よりも早く昇天して天国へ上りたいという快楽という名のフィニッシュを迎えるのでは、終わりの重要さが全く違うのだ。確かに中断という形の終わりはなきにしもあらずだ。けれどそれは本当に正しいのか?最後までやり遂げてこそ人間の本質が現れ、この後世に必ずなんらかの影響を与える。これは確実と言ってもいい。現に歴史に名を残す、芭蕉や信長などは必ずやり終えているではないか。芭蕉は長い旅の中何度も挫折しようと決めた。しかしそれではいけないと思い、最後までやり終えたのだ。これが「間」が不十分だったとしても「終わり」を迎えればその不十分さを補ったこととなっている。だからなんでも物事は「始め」出したら、続け、そして「終え」なければならない。

つまり俺が言いたいのは、まるこちゃん占いでスネ夫を思い浮かべた時点で終わっていると言いさらにその後、俺はまるこちゃん占いを続けなかった。なぜならスネ夫を思い浮べた時点で「終わって」いたからだ。

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